子供の居場所
引きこもる部屋よりも

最近の凄惨な少年事件のニュースを聞く度、設計者としてそのような事件にかかわった子供の部屋は、一体どうなっているのかと考えてしまう。ひょっとし て、何か家の作りや間取りが根本的に間違っていたのでは?子供のことを考えると、5LDKの戸建て住宅よりも、かつての2DKの方が幸せだったのかもしれ ないとも思えるのだ。

現在子供部屋は一般に子供が中学から高校のとき、受験勉強がはかどるよう親があてがうものと思われている。しかし、日本の住宅に子供部屋が定着したのは、たかだかここ数十年。始まりは戦前の京都大学の西山夘三氏の研究「食寝分離論」にさかのぼる。
西山氏はその中で、それまでハッキリと区別されていなかった食堂、つまり「D」を確立しようとした。

第2次大戦後、住宅不足解消のため県営・市営住宅が次々と造られた際に一気に開花。1955年に設立された日本住宅公団は大都市周辺で大量の「2DK」「3DK」住宅を供給した。高度経済成長時代に突入すると、居間が加わり「3LDK」が登場する。
次第に個室(具体的に言えば、寝室と子供部屋)の部屋数「n」をLDKに加えたnLDKという呼び名が、住宅のグレードを表すようになる。しかしこのnと いう数字こそ大きな問題を含んでいたのである。2LDKより3LDK、3LDKより4LDKの方がよいと思われ、本来、部屋数以上に重要な質が考慮されな い。日本人は住宅市場で明らかにステレオタイプ的な思考の落とし穴にはまってしまったのである。

歴史的には、日本の住宅の間取りは畳の 部屋が並んでいるだけの状態から、台所、居間、食堂、主寝室などの独立した機能を持つ部屋の集合へと変わってきた。そういう流れの中、最後に登場したの が、子供部屋なのである。しかし導入にあたってどんな部屋が重要かが考えられた形跡はない。子供が自立するのに親との接触や、親の存在から受ける情報が重 要であるなどということはほとんど考えられなかった。引きこもれる子供部屋よりも、2DKのマンションのように親と一体となった生活が重要だということも
意識されなかった。

ただ勉強部屋として「n」という部屋数に埋没させられたのではないだろうか。重要なことは、個々の家族に適した住まいはどうあるべきか、そして「その子」にとって必要な子供部屋は何かということを自ら考え続けることなのだが……。
1999年8月5日(木曜日)  毎日新聞掲載

間仕切りはルーズに

日本では、一般的に子供が生まれると両親の寝室で育てる。幼稚園、小学校低学年までは親子離れることがない。やがて、子供部屋が与えられ、親子が寝室を分離する。子供が大学に行くと、多くは家を出て行ってしまう。仮に就職して家に戻っても居つくことは少ない。就職を違う場所でした場合は、年に数回帰ってくるだけだ。つまり、子供部屋が実際に子供部屋として機能している期間は、わずか数年でしかない。住宅の寿命は、数十年として考えられているのに、その中のわずか数年なのである。

1人1室で子供部屋を与えるということがその家庭のありかたとして、いつも正解だとは限らない。子供の成長を通して、あるいは巣立ってからも、家族全体が住みやすい家となるために、子供部屋を少しルーズに考えてみることを提案したい。

M邸の家族構成は、両親+娘3人+祖父である。お嬢さんは高校生1人と、中学生、2人で、もう10年もすると、1人、また1人と家を出ていくことであろう。将来、娘さんが結婚され、お孫さんを連れてくるころになると、三つの個室は無意味になってくる。

私はこの家族構成を考え、3人の勉強スペースと寝るスペースを分けることを提案をした。勉強スペースは3人が一つの部屋を共用し、寝るスペースは、一つの部屋をクローゼット家具や間仕切り壁によって3分割し個室のようにした。部屋としては本当は2室である。

3人の机が並ぶ勉強スペースは、1階のダイニングやキッチン、リビングの一部から吹き抜けとなっている空間に面している。吹き抜けを仲介に互いに家族の気配を絶えず感じることができる。

それぞれの寝るスペースを仕切っているクローゼット家具や間仕切りは、天井まで届かずすき間がある。将来、移動及び撤去が可能なようになっているのだ。こ のため視覚的にはプライバシーが確保されているが、音はつつぬけである。つまり、孤立できるほどプライバシーのすべてを確保しているわけではないが、一つ の家族として、姉妹として共に生活していく際のプライバシーは確保しようということだ。

寝るスペースは、間仕切り壁やクローゼットを移動もしくは撤去すれば最大15・5畳のワンルームとなる。将来、お孫さんの遊ぶスペースとなるのか、あるいはご主人の書斎となるのか。家は、何十年もの間、生活を受け入れる器である。状況に応じ器はルーズに使いたいものだ。
1999年8月12日(木曜日)  毎日新聞掲載

屋上を遊びの空間に

子供の遊びの空間は大きく、内部と外部に分けられる。自分の家や友達の家が内部。自然スペース、原っぱ、道、児童公園などが外部である。小学校低学年までは、内で遊ぶことと同じように外で遊ぶことが重要だ。

ところが都市部では、子供が遊べる外部空間は確実に減少している。自然スペースとしての海、山、川は大抵、遠いところにあり、日常的に遊ぶ範囲内にはな い。遠足や、家族で車で出かける距離である。原っぱも私の子供のころのように勝手に入って遊べる雰囲気はない。ましてや道は車が多くなり、おちおちケンケ ンや三角ベース?をやっていられない。

そこで考えられるのは、屋上空間である。1920年代に、ル・コルビジェは、近代建築の5原則を 提唱した。ピロティ、屋上庭園、自由な立面、自由な平面、横長の窓である。それは、それまでの古典的な建築のイメージを払しょくするための提案だったのだ が、その中に屋上庭園があった。52年に完成したル・コルビジェ設計のマルセイユユニテ・ダビダシオンは、集合住宅や、ホテル、店舗などが1棟に入ったい わゆる複合ビルであるが、その屋上には、幼児が遊ぶプールや日光浴場、テラスが設けられていた。何組もの親子が集い、子供をプールで遊ばせる写真は、今の 日本の都市部における子供の遊び場を示唆しているようだ。

都市型住宅において、屋上を子供の遊びの場にしてみてはどうだろう。屋根だけ であるよりはコストがかかるが、夏は、ビニールプールを設置し子供が楽しむことができる。居心地のよい安心できる遊びの空間となりうる。また、庭と考えれ ば、ガーデニングを楽しんだり、デッキにしてリラックスの場として生かすこともできる。

テレビゲーム等の普及に伴い、子供が外で遊ぶこ とを積極的に行わなくなってしまった。私自身、都市環境を考えると、何か設計や計画された建物が増えるほど、都市計画が進めば進むほど、結果的に子供の遊 びの場を奪っているのではという職業上の矛盾を抱え込んでいるのではと考え込んでしまう。子供の特権の場である秘密探検基地は、おとなが与えることはでき ない。せめて都市型住宅において、屋上を子供が遊べる外部空間として考えられないだろうか。
1999年8月19日(木曜日)  毎日新聞掲載

どこに置くマンガ本

ここ数十年、マンガを読む人は確実に増えてきた。そしてかかわり方もすっかり変わってきたといえるだろう。1世代前、私が小学生のころはマンガの主要な媒体は、雑誌とテレビだった。今や、テレビゲームの重要なキャラクターであり、映画においてもアニメーションはすっかり地歩を固めている。出版物のかなりの量をマンガが占め、マンガのキャラクターグッズが次々と生産され、一つのキャラクターが生活用品すべてを占有することも可能なほどである。

マンガと住宅について考えてみよう。マンガがモノとして住宅の中に存在するのは、雑誌やコミックなどのいわゆるマンガ本か、テレビ番組やテレビゲーム、ビデオ作品などを映し出すテレビである。ここではマンガ本について考えてみたい。

マンガ本は置き場所も、読む場所も難しい。例えば、リビングのように人目につきやすいところに置くと、来客のときマンガばかり読んでいるようで格好悪い。 子ども部屋に置くのも親としては気が引ける。なんとなく置き場所がないのである。読む場合にも、リビングで家族の前で読むのは気が引ける。マンガは、自分 だけのスペースで読みたいものである。

鉄骨造りの住宅を設計したとき、階段のところに梁の幅のスペースがあいてくるので、そこに本箱と なる収納を設け、マンガ本を並べてみた。すると、子供は階段に座り自分の図書室のようにして読んでいた。設計者としてはさりげない場を作るだけで、後は子 供が自分なりの感性で、その場の身の処し方を見付けてくれるのである。

マンガが生活の中でどのように位置づけていいかはっきりしないも のなら、このような場、つまり階段横の収納棚と階段を、子供のマンガのスペースとするのもいいのではないだろうか。窓を通すあかりの下で、兄弟が並んでマ ンガを読む風景が一つの原風景として記憶に残るのではないだろうか。そうなれば、設計者としては喜びである。

マンガを住宅の中でいかに 位置づけるか。マンガのキャラクターは将来、パソコンの世界においても活躍するに違いない。そうなったとき、今度はパソコンをどこに置いて、どのように使うのか。住まいの中にさりげなくパソコンが入り込み、今よりもっと身近になったとき、それとどのように付き合っていくか。我々の身の処し方を考えていかなければならないであろう。
1999年8月26日(木曜日)  毎日新聞掲載

適度なリスクは必要

階段に手すりがない住宅をつくることがある。それは私自身が納得した上での判断であり、オーナーにも図面を見せたり現場で説明したりしてのことだ。それで問題はないのだが、第三者からはなぜ手すりが無いのですかと尋ねられることがある。

実際、階段は住宅の中で最も事故が起きやすい場所であり、階段を上り下りする時は不安になるものだ。建築基準法にも階段に手すりを設置しなさいと書かれて いる。が、階段の手すりそのものの規定はない。私は階段を設計する際、踏面や段差などの寸法に細心の注意を払う。また、少しでも心理的不安感を和らげるた めに、階段付近の採光や照明器具の位置に配慮をする。この手すりがない階段の場合には、上り下りの心理状況を踏まえて、片側に寄り添える壁をきちんと作る。人間は不安を感じれば本来は手すりを設置する側を歩かず、安心出来る壁に沿って上り下りする。子供というよりも人間の空間感覚を信じて、手すりを設置 しないのだ。

子育てに、子供が学習出来る程度のリスクを設定することは重要なことでないだろうか。子供も学習しながら、あるいは人間の本能的な勘を養いながら、その問題に対処し、さらにはそれを楽しむ余裕を得ることができる。住宅の手すりの問題は、例えば一般大衆を相手にする池のさくの 問題とは、質が違う。池では、もし事故が起きれば管理者がその責任を取らされるため、結果的にさくを設置し立ち入り禁止とする。事故の責任という問題のた めに、池で遊ぶことや、釣りをすることなど、池に関する多くの可能性が取り上げられてしまっている。

住宅の場合は、個人の責任の範囲で その問題に踏み込むことができる。もちろん、オーナーと設計者の納得行くまでの議論が必要であるが……。宮崎駿のアニメーション「となりのトトロ」では、 少しやんちゃな女の子メイが、森に遊びにいくことから親の知らない世界を見付けていく。子供は親の従属物ではなく、どこかで親と違う可能性を見付けて行か なくてはならない。

安全という神話は両刃の剣である。事故が起きると、日本では、個人の責任よりも管理者の責任が追求されるが、本当は 事故が起きないように個人の自覚を育てる方がよいのではないだろうか。対症療法はどこまでいっても後手に回ってしまうが、予防療法は本人の新たな可能性を 引き出すこともある。安全という言葉は、個人の主体的判断を停止させてしまっているかもしれない。むしろ、安全でない階段だからこそ、主体的判断が育ち、 遊びが創り出されることもあるのではないだろうか。
1999年9月2日(木曜日)  毎日新聞掲載

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